こんにちは。中田麻奈美です。
松本地域は台風のような土曜の夜でしたね。
また鉢植えがひっくり返ってはたまらないので、
今回は玄関の中に避難させました。
満開を迎えていたジューンベリーの花びらも、
雨に叩きつけられて散り散りです…
コンサルタントに踊らされ…「会社を改革したかった」というクーデター未遂事件
春の嵐の中で、こんな事例が起きていました。
先週相談に伺った会社では、コンサルタントが、社長とある部門を取り込み、
管理部を外して組織改革を起こそうとしました。
社長夫婦を引き裂き、会社を分断。
奥さんである専務を退任に追い込もうとするも、空振りに終わったようです。
騒ぎが収束してから主導者の社員たちに事情を聴くと、
「会社を改革したかった」と。
「現状の何を問題だと思っていたの?」
「どんな弊害があって、どうしたかったの?」
「どんな未来を描いていたの?」
聞いてもはっきりした答えは返って来ず。
結局コンサルタントも外され、
「あの先生と頑張るって言ってたのに…」
と社内もざわついているようでした。
私は、もちろん逐一全部見ていたわけではないし、
全員から事情を聴いたわけではありません。
だから推測するしかないのですが、
おそらく、改革派の中では、意気投合していたのでしょう。
相手の派閥の悪口で盛り上がり、
「そうそうそう!そうだよね!ダメだよね!」と。
すっかり一致団結していたわけです。
「みんなも分かってくれるはず」
「同じ考えのはず」
それで突っ込んでしまった。
でもね。
分からないですよ。人が考えてることなんて。
「分かってくれるはず」という幻想では、誰も説得できない
「会社を変えよう!」
ここまでは、もしかしたら同調してもらえるかもしれません。
だけど、
何を、どのように変えようとしているのか。
変えたことで、現状のどんな問題が、どう解決されるのか。
それによって、社員はどうなれるのか。
もし改革しなかったら、どんな悪い未来が待っているのか。
「改革」なんて言葉に踊らされても、
改革後の未来を、同じ夢として共有できなければ、
誰がリスクを冒してクーデターに乗っかるでしょうか?
夫婦でも親子でも、言葉にしなければ分からないことだらけです。
いや、言葉にしても伝わらないことの方が多いのかもしれません。
それなのに、多様な個性の集合体である会社で、
どうして言語化されないビジョンを自分事として共有できるでしょうか。
ここでいう言語化は、単に「改革」とか「変革」といった、
ふわっとした曖昧で概念的な単語を使うことではありません。
ありありとイメージ動画が浮かんでくるくらい、
具体的な言葉です。
そうでなければ、理念もビジョンも共有できません。
そして、イメージできないことは実現できません。
前回のブログで、
「分かってくれるはず」ではダメだと申し上げました。
残念ながら、それは自意識過剰です。
そんなに社員は社長の頭の中に興味はありません。
社長自身さえ頭の中を明文化できていないのだとしたら、
いわんや社員に伝わるはずもありません。
察する―『忖度する』に任せていると、
霞が関状態になってしまうわけです。
もちろん、日々のルーチーンは「察する」だけでうまく回るでしょう。
社歴の長い社員は、「分かってくれる」でしょう。
それほどズレないかもしれません。
問題は、何かあったときです。
ちいさな、些細な何かかもしれません。
しかし、その小さな判断の誤りが、
やがて大きなコトを引き起こすことはよくあります。
判断基準、それが理念です。
まとめ
・言語化していない考えは、分かってもらえない
・具体的でない言葉では、イメージを共有できない
・具体的にイメージできない理念は、モノサシにならない
あなたは、判断のモノサシとしての理念がありますか?
それが社内の隅々まで浸透している自信がありますか?
ナカミ創造研究所では、
理念の具体化と浸透のお手伝いをしています。